柚
柚子カレーさん (8zml5wu2)2024/7/1 20:07 (No.108688)削除音叉の音と弦の音。波形の海に沈んでいた頭が、ドンドンと扉を叩く音に引き戻される。
「……だれだ?」
半ば音楽の海を揺蕩う脳で開けた扉の向こうには、人形を抱えた子供が一人。落ちてくる雪に散々に汚され、小さく震えている。寒いのだろう。それはそうだ。これだけ冷えてしまえば。
「どうしたハク……いや、とりあえず中に入れ。震えている」
「………壊れたんだ。壊された。ハクが壊された」
「中に入れと」
「治せないか?」
「………中に入れ。見てやるから」
迎え入れた子供は、それでもその人形を離そうとせず。己が作ったものがここまで大切にされる、というのも。なるほど悪くは無い。無いが。
「ほら。琥珀を渡せ。お前が抱えていては調べもできん」
「ハクは、治るか?」
「見なければわからん。ほら、渡せ。奥に風呂がある。その間に入っていろ。」
全く。己に子供を宥めさせるような真似事をするのはこいつくらいのものだ。
ただ設備としてあるだけの風呂の支度など、当然していないが、子供でもあるまい、己で支度もできるだろう。
その手から人形を奪い取り、子供を風呂場へ押し込める。開いてみれば、なるほどこれは。
「随分と念入りに壊されたなァ……」
開けば開くほど傷が出る。直せないというわけでは無いが、この有様では。
「治るのか」
見聞に気を取られていれば、いつの間に戻ってきたのか、子供が後ろにたっていて。
「直せんことは無い。が。ここだここ。核が酷く削れている。ガワを直したところでこの傷ではな。記憶はおろか、性格も失われているやもしれん」
「は?」
それは、悪魔と対峙している時でさえ聞いた事のないような声。普段のこれを知っているものなら、別人のものと思うような。地獄の釜から湧き出たような、憤怒。そんな声。
「作ったのはお前だろう」
「核以外はな。これは偶然の産物だ。再現出来るものでは無い」
「なら、ハクは」
「なるべく元の形に近づけることは出来るが。核が別物なら、それは同じ形の別人だ」
「………どうして」
「……なあハクよ。己が正義であろうと。相手が悪であろうと。恨みを買うとは、そういうことだ」
あぁ。まったく。せっかく風呂に入らせたのに、どうしてまたそうも無駄に己を濡らすのか。差し出せる手ぬぐいなど俺が持っているわけもなかろうに。
「治せ!治せよ!お前が作ったものだろう!?お前が俺に与えたものだろう!お前が!お前が治さないなら!!!」
激昂のまま己の胸ぐらを掴んだうでから。己を揺さぶるその腕から。少しずつ力が失われて。
「じゃあ、誰がハクを治してくれるんだよ………」
最後には、子供はその場にくずおれた。
常に飄々としていて、誰の前でも笑顔を崩さず。あの父とすら良好に関係を築くこの男なら。転がり込んできた偶然に形を与えただけの産物でも愛せるのだろうかと、ほんの出来心で与えただけのこの人形が。随分な弱みになったものだと思う。己の作品が、ここまで愛されるということを、いち創造者として、随分に喜ばしいことだと思う。
「まあ、ガワだけは取り繕ってやろうな。核も砕けた訳でなし。同じものと呼んでも問題はなかろう」
「…………は?……なに、言ってんだ、お前」
同じガワ。多少の損傷はあれど同じ核。であれば、同じ魔法人形だ。だからそう言っただけなのだが。
「うん?だから、直せる、と言ったのだ」
「記憶は?性格は?感情は?」
「まあ、多少の損傷や誤差はあるだろう。その程度だ」
「その、程度……?何、言ってるんだ」
………さて。己はなにか間違えたのだろうか。言ってることは間違えていないはずなのだが。
「………ハクを、返してくれ。帰る」
「……うん?直さんのか?」
「返せ」
「ハク?どうした?」
「返せと言っているんだ。俺は、お前を殴りたくて来たわけじゃない」
人間とは、わからんものだな
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窓の外では、雪が積もっている。こんな日は外が随分静かで、本を読む手が進むというもの。とはいえ家にある物は既に一通り目を通している。ならば何をしたものか、と思考の海に潜ろうとする自分を、ドアをノックする音が引き止める。視線ひとつでドアを開けた息子の動揺する気配に、片目だけで扉の外を伺えば。そこに居たのは見知らぬ男。長い髪を雪で凍らせた、その男が
「………見てくれ父さん。死に損なったよ」
泣きそうな顔で。随分と楽しそうに笑って。
そこからのことは、よく覚えていない。息子の絶叫。歪む子供の顔。ちぎれる自らの腕。子供の顔も見れずに、ちぎれた己の腕を、ただ眺めていた。それだけの、こと。